おたまじゃくしはカエルの子

元小学校教員の、徒然なる日々の記録

私が、「うつ病」が別に嫌いではないその理由

先日、旦那に本を勧めてもらった。将棋師の先崎学さんの「うつ病9段」。先崎さんが重度のうつ病から回復していく、体験記だった。そういう私も、社会人になってから幾度かこの病気に悩まされてきた。

「読んでみて、共感する所、ある?」

と旦那に聞かれ、

「う~ん、そうだね~」

と答えると、旦那は

「へー、やっぱりそうなんだね~」

とのんびり答える。それを聞きながら、やっぱり体験した事のない人にとって、この病気って不思議なモノなんだなあと考える。

 

うつ病とは、目に見えない小さな子供みたいなモノだと思う。

 

目には見えないからどこにいるかはわからないし、普段はおとなしいから特に何もしない。しかし、気づかないうちに無理が重なっていくと、ある日、まるでこなきじじいの様に肩におぶさってくる。もしくは寝ている時に、体に馬乗りになってくる。しかも、怖いのはこの子供、自在に体重を変えることができるようで、日によって重くなったり、軽くなったりできるのだ。だから、のっかられてる方はたまったもんじゃない。日によって体が重くて起き上がれなかったり、次の日になると、妙にすっきりと起きられたり、予想がつかない。本当に迷惑なオコサマなのである。

 

このオコサマに初めて出会ったのは、社会人一年目の時。それからだから、かれこれもう10年以上の付き合いになる。初めはこの厄介な存在と縁を切りたくてたまらなかったが、今はもうあきらめてる。おそらく、私はこのオコサマとこれからも、ひょっとしたら一生お付き合いするのかもしれない。現に、年に数回は起き上がるのもしんどいくらい体も気持ちも重く、暗くなって、一日寝込んでしまう事もある。

今この文章を打っている間にも、このオコサマは部屋の隅にいて、いつ私も肩にのっかろうか虎視眈々と狙っているのだ。そう思うと、ちょっとかわいく愛おしく思えたりする。

 

この病気に出会う前の自分と、出会った後の自分で大きく違う点があるとするならば、「立ち止まる」という選択肢が生まれた、という事ではないかと思う。病気になる前まで、私は物事がうまくいかなくても、努力でなんとでもなる。万事解決すると思っていた。目標があるなら、それに向かってひたすら努力するべきだし、うまくいかないならそれは努力が足りないから。という学校の先生もびっくりするくらい薄っぺらい思想の持主だった。

 だが、あの病気におかげで、「一回立ち止まって、周りを見て、場合によっては撤退する」という選択肢を持つ事が少しずつできるようになってきた。きっとあのオコサマの体重があんなに重くなったのは、「おーい、ちょっと立ち止まれよ~。無理してるぞ~休め~」と無言のメッセージが込められていたのかな、と思う。

 

おそらく、私はこれから先もこの厄介なオコサマと一緒に、ほどほどに仲良く生きて行こうと思う。私にとってうつ病とは、めんどくさくもかわいい子供であり、意外と大事な事を伝えてくれる先生なのだ。