おたまじゃくしはカエルの子

元小学校教員の、徒然なる日々の記録

発達障害が、治る、とは?

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特別支援学級に勤め出して、数か月後のこと。

長期休暇で実家に帰省した際、私は自分の仕事の事を両親に話した。両親もそれまでの私と同じで、障害のある子どもや人に対して何の経験も知識もなかったはずだが、興味を持って聞いてくれた。その時に、父が私にこんな質問をしてきた。

 

「その障害って、治らないのか?」

 

「治らないよ」と答えたが、その時私は、自分のクラスの子ども達の顔を思い浮かべながら、障害が治るってどういうことなんだ?と考えてしまった。

例えば、足に障害があって歩けなくなってしまった人に何らかの治療をして、また歩けるようになった—。恐らく父は、そんなケースをイメージしていたのだろう。

だが私のクラスの子ども達が抱えているのは、身体的な障害ではなく発達障害だ。物事の感じ方や捉え方、集中の仕方が世間一般と比べると偏りがある、という事。大雑把に言ってしまえば、『超個性的』という事だ。その障害の部分が治る、という事は、その個性が薄まって、世間一般的になるという事なのか?でも、その子がその子でなくなっていくという意味だとすると、決して良いことではないのでは…?

 

長所と短所は裏返しである、とよく言われるが、発達障害もそれと全く同じである。かつて私が担任したクラスに視覚と聴覚に過敏さを持つ男の子がいた。彼は非常に優れた視覚を生かして図工の時間にはユニークな作品を作り上げたし、たまに聞こえてくる彼の歌の音程は完璧だった。だが、耳と目が良すぎる、という事は人よりもたくさんの視覚や聴覚の情報をキャッチしているという事でもある。学校のようなザワザワした場所は、彼にとっては疲れやすい。時に情報を上手く消化できず、パニックになってしまう事もあった。

一度、その子が隣のクラスの教室の前でパニックになって叫んでしまった事があった。なんでそうなったかは覚えていないが、その子にとっては情報過多の状態だったのだろう。しばらくするとその子は落ち着いて、特にその後は問題なくその日は終わった。放課後、隣のクラスの担任の先生に、クラスの前で騒がしくしてしまった事に対して私は謝りに行った。その時、その先生は私に同情するような顔で

「あの子は病気だよ。先生も大変だね」

と言った。

恐らく、私を気遣って言ってくれたんだろう。

だが、妙に悲しく、妙に腹立たしかったあの時の感情が今でも忘れられない。