おたまじゃくしはカエルの子

元小学校教員の、徒然なる日々の記録

虐待事件を考える

 

静岡で起きた、保育士による園児の虐待事件は衝撃だった。今まで、保育園児、しかもまだ1歳の子供達に対して、ここまであからさまな虐待というのは聞いた事がない。

 

ただ、虐待とまで行かなくても、教育現場での体罰や暴言といった事件は、別に珍しいというわけではない。教員時代は職員会議で、近隣で起きたそういった類の事故の報告を毎月のように聞いていた。

 

なぜ、そういった類の話がなくならないのか。私は教員のモラルが低いとか、教育が行き届いてないからではないと思う。誰だってーそれがどんなに人間的に素晴らしいとされている人であってもー虐待や体罰をしてしまう因子は持っている。

 

初めて小学校で担任を持つ事になった時、私はとある大先輩に言われた事がある。

「担任はね、猿山のボスなの。あなたはボス猿なのよ」

その時はなんだか嫌な言い方だな、と思った。担任なら、もっと慈愛に満ちた、子供にとっての母のような存在でありたかったのだ。でも、担任として過ごすうち、この先輩の言葉に納得せざるを得なかった。

 

子供達は、わかりやすく、納得できるように指示を出してやれば、ボスである私の言う事を聞いてくれる。このボスについていけば、楽しくて良い毎日が送れるとわかれば進んでついてきてもくれる。だが、納得できない事が続いたり、理不尽な目にあったり、ボスとして頼りないとわかれば、すぐさまボス転落を狙って襲ってくるのだ。

別に私の受け持った子供達がとんでもない問題児ばかりだったかといえば、全くそんな事はない。みんな個性的で、いい子だった。

だが、大人一人に対して子供30人。しかも私は大人として、学校のルール(理不尽なことも、意味のわからないものもちょいちょい含まれている)に従わせなければならない、というミッションも請け負っている。相手は子供とは言え、30人もいて、しかもそのうち何人かは大人のズルさを見つける天才だ。ここまで書けば、大人が結構不利な立場だという事を想像してもらえるんじゃないだろうか。

 

正直な話、担任として子供の前に立つ時、いつもどこかで感じていたのは”恐怖”だっ

た。子供達に、自分のズルさを見抜かれているんじゃないか。そしてボスの座を奪われるんじゃないか。どんなに楽しい時でも、この恐怖が完全になくなる事はなかった。

 

「そんな事を言ってきたら、私なら泣くまで絶対ゆるさないよ」

職員室で、子供に生意気な事を言われた事を話した時に、先輩先生にこんな事を言われた事がある。きっとその先輩は、子供を泣かせる事で、自分と子供の立ち位置を確認してきたんだろう。

 

「虐待」と、「指導」。この違いは、実は紙一重で、境目もあやふやだ。私はたまたま、虐待も体罰も経験しないでここまで来る事ができた。だが、学校が今の体制で続く限り、この問題はずっとついてくるのだろう。