おたまじゃくしはカエルの子

元小学校教員の、徒然なる日々の記録

愛しのやだもん

子どもの頃に見た映像や本というのは、なぜこんなにもよく覚えているのだろう。

 

大人になってから読んだ小説は、主人公の名前すらはっきり覚えていなかったりするのに、(読み終わったのがつい先月だったとしても)子どもの頃に読んだ本や映像だと、頭の中にありありと再現できたりするのだから、人間の脳というのは面白い。

 

おかあさんといっしょ」というNHKの幼児向け子ども番組が今から30云年前に放送されていて、その中に「こんな子いるかな」という5分くらいのアニメのコーナーがあった。「こんな子、いるいる」と頷きたくなるキャラクターが8人出てくるのだが、私はその中の7人はうっすらとしか覚えていない。だが一人だけ、緑色の顔をした「やだもん」だけは、なぜかものすごくはっきり覚えている。

 

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いつも「やーだもーん」ばかり言っている『やだもん』

こいつは、常にしかめっ面をしているちょっとイやなやつだ。友達の犬と猫(毎回出てきてたけど、この二人に名前がついていたのかよくわからない)が「やだもん、ブランコ貸して」と何回頼んでも、「やーだもーん」と言ってお気に入りのブランコを独占する。あまりにわがままなのに呆れて、「もういいよ、あっちで遊ぼう」と二匹が行ってしまうと、今度は「やーだやーだ」と言って泣き出す。

 

これだけ言ってしまうと何がそんなに良かったのか、さっぱり伝わらないと思う。だが、この「やーだもーん」のセリフが30年以上たった今でも耳の奥に媚びりついて離れず、つい先日ふと思い立ってこのセリフをGoogleの検索キーワードに入力してみた。そして、この緑色のとげとげ頭と久々の再開を果たし、さらに耳の奥に媚びりついていた声とYouTubeで再生された声がぴったり一致した事に不思議な感動を覚えたのだ。

 

小学校教員時代、教室には何人も「やだもん」達がいた。

1年生のA君は、とても線の細い小柄な男の子だった。入学してしばらくは、嫌な事があっても言い返すどこらか、私たちに訴えることもできない。こちらがはっと気が付くとしくしく声も上げずに泣いていて、慌てた事をよく覚えている。

それが3学期になってから様子ががらっと変わった。嫌なことをされるとはっきり「いや!」と言う。相手に言ってダメなら私に言いつける。それでも気が済まないと、地面をどんどん踏みながらわめく。「もう、やだ!やだ!もう!!」その姿は、まるで小さな怪獣のよう。彼が校庭で気が済むまで地面をどんどん踏むのを、私は若干にやにやしながら窓から眺めていた。そして彼のお母さんへの連絡帳には「最近、自分の気持ちを表現するのが上手になりました。成長ですね」と書いた。

 

会うは別れの…

最近、私の働くフリースクールで一つの別れがあった。A君が遠方に引越すため、辞めることになったのだ。

 

彼は、不思議な魅力の持ち主だった。ウチに来ている子供の何人かは、玄関で靴を脱ぐなり

「A君来てる?」

と言う。過剰に人にサービスしたり、ゴマを擦ったりするわけではない。なのに、誰からも受け入れ、また受け入れられてしまう。そんな人だった。

そんな彼が辞めるとなったら、さぞ皆んなショックを受けるだろう、と思っていた。泣いてしまう子がいるかもしれない。

ところが意外だった。皆んな意外と、あっさりしているのだ。

「えーやめちゃうの?」

「もう来ないの?」

とちょっとびっくりはするものの、そのあとは普段通り。彼が最後に学校に来た日も、別れ際は

「ばいばーい」

といつものように声を掛け合って、それでサヨナラなのだ。

 

子供というのは前向きだなあ。常に未来を向いて、次の出会いを探しているのか。などと一人感心していた。

 

だが彼がいなくなって一ヶ月たって、彼と特に仲の良かった一人の男の子がぶつぶつとつぶやいていた。

「Aがいたらゲームのこと、色々聞けたんだけどなー」

私は

「メールとかズームとかで連絡してみればいいのに」

と、軽く返すと

「えーだってー連絡先、知らないもーん」

と言うではないか。

 

 

…そうか、きっと彼らは今まで毎日会っていた人と急に、会えなくなると言うことがどういうことかわからなかったのだ、と私はやっと気づいた。きっと、彼の頭の中ではA君が引っ越した後も学校に来ている像が浮かんでいたのだろう。例えどんなにもう会えないと、人から言われていたとしても。

 

カナダで犬の面倒を見る

カナダに留学していた頃のお話。

 

私が数ヶ月ホームステイさせてもらった家に、ある日子犬がやってきた。ホストマザーによると、ドーベルマンとラブラドールのミックス(どどうやって愛を育んで交わったんだろうか)のオス。名前は聖書から取って、ルシファと名付けられた。

 

二ヶ月ほどたった時、ホストファミリーがクルーズ旅行に10日ほど出かけることになった。私達留学生の世話はホストマザーの知り合いが来てくれることになったが、問題はルシファだった。誰に面倒を頼むか、という話をしていた時、ついうっかり

「私がやろうか?」

と言ってしまった。途端にマザーの目が輝く。

「まあ、ホントに?!ありがとう!!」

お礼としてお小遣いをくれる、ということになり、貯金を切り崩していた私にとっても嬉しい話だった。

 

ホストファミリーがクルーズ旅行に行く一週間前にルシファのお世話の仕方を教わった。まず、エサの用意の仕方から。これが意外と手が混んでいた。彼らは普段の人間の食事には結構おおらかなのに、大事な愛犬にはきめ細やかだったのだ。

まず、ドッグフードの缶詰を開けたらそれを半分だけボールにだして、スプーンで細かくほぐし、レンジにかける。そこにドライフードカップ一杯と、栄養補助食品を二種類いれてさらに混ぜる。

エサのやり方にも決まりがある。庭の犬小屋の前で興奮気味で待っているルシファの所に来たら、餌を鉢に入れ、「お祈り」をさせる。ファザーによると、ルシファは、クリスチャンなんだそうだ。

「ペラペラペラペラ…アーメン!」

このアーメンがルシファにとって日本語でいう

「よし!」

なのだ。ここでやっとルシファはご飯にありつく事ができ、私の朝のお仕事が終わる、というわけだ。ファミリーはよほど心配だったのか、出発前に3回も私にエサのやり方を教えてから旅立って行った。

 

私はその間、朝晩毎日エサをやり、散歩に連れていった。ただ、私がそんなきめ細やかな事をやり続けるワケがない。エサの時は缶詰の中身とドライフードをレンジにもかけず、ただ鉢にぶちこんでいた。お祈りは何を言っていいのか全くわからないので

「むにょむにょむにょ…アーメン!」

で済ませた。出鱈目もいいところだ。

 

ルシファは最初の3日は餌を出されるなり直ぐに食べようとしていた。だが私に

「おい、コラっ!」

と日本語で怒られているうちに、どうやらしばらくは私の言うことを聞かないとご飯にありつけないと悟ったらしい。恨めしそうな目でこちらを見ながら、次の「アーメン」を待つようになった。

 

犬と、小さな子供は、どこでもなかなかゲンキンな物である。

 

 

 

「先生」の体

先日、噂のワクチンを打った。

一応、その日は仕事は休みにして、次の日も休めるように手を打ったが、内心そんなに大げさにしなくても大丈夫じゃないか…と思っていた。

 

…が、甘かった。

ワクチンを打ってから5時間後あたりから体がだるくなり、熱を測ると37度。その後解熱剤を飲んで一度熱は下がったものの、翌日再び上昇。結局丸々二日間副反応に付き合わされる羽目になった。ここの所、毎日マスクをつけてるせいか、風邪もあまりひかなかったから久しぶりの感覚である。

思えば、教員時代は本当によく風邪をひいた。春にスタートして、最初のドタバタを過ごして、保護者会を緊張して終えた後に、まず一回ふっと熱が出る。で、次に夏休みが明けて、怒涛のごとく運動会の練習が始まり、ばたばたしていると喉がいたくなる。これをのど飴と喉スプレーでごまかして本番が終わった後に、ぶあっと熱が出て、2回目。そしてその後は、寒くなると同時にインフルエンザの季節がやってきて、下手すれば1か月に一回のペースで熱を出していた年もあった。

教員になりたての頃、先輩に「まずは元気に毎日学校に来ること」と言われた事がある。そんな普通の事がなぜ大切なのか、最初はわからなかったが、すぐにその意味を知る。学校の人員にゆとりはない。だから、だれかが休めば、他の誰かが無理をしてその分をカバーしなくてはならない。それに、クラスの子どもも担任が休めばなんとなく落ち着かない気持ちでその日をすごさなくてはならない。どんなポンコツ担任でも、休むよりは学校にいてくれた方が、はるかにいいのだ。

驚いた事は、ベテランの先生達になるほど風邪をひかない事である。私など、冬になると風邪をひいたり、インフルエンザにかかったりで大騒ぎをしていたが、50代、60代の先生はそんな若手を労わる事はあっても労われる事はほとんどない。「もう体に免疫ができちゃっているからね」と言っていたのを思い出す。

あの仕事を長く続けていくには、やはり体の内側から学校に染まっていかなくちゃいけなかったんだろうなあ・・・・。私は色んな面で「先生」にはなりきれなかったのだろう。

 

あの時の先輩たちは、やっぱりワクチンを打っても副反応など出さないで(出ても気力で乗り切って)子ども達と過ごしたんだろうか。

 

 

発達検査は何のため?

先日、フリースクールに来ている子供のお母さんとこんな話をした。

「学校から、発達検査を受けるように、って言われて受けたんですけど、あれ、受けて何か変わるんですかねえ…」

 

発達検査というのは、ざっくり言ってしまえば同じ歳の平均と比べて、どの部分が(肉体的な部分以外で)どの程度発達しているか調べる検査だ。

学校では、子供が所謂通常の学級で通常通りの学校生活を送れない、ということになった場合、必ずと言っていいほどこれを受けるように言われる。子供の得意な事と苦手な事を客観的に把握して、支援に役立てるため、ということなのだが…

「あれを受けても、学校は何も変わらないし、自分の子供の苦手な事くらい、受けなくてもわかってますよ」

 

うーむ。リアルな声。なんだか耳が痛くなってきた。

 

発達検査に受ける意味がない、とは全く思わない。私自身、親でも先生でもない、完全なる第三者からの客観的な分析を読む事で、気づく事もたくさんあった。

 

だが、通常の学級ではあの結果をどう生かしたら良いのだろうか。

その子個人に対する言葉掛けなどには生かせるだろう。だが、その子に合わせて授業の流れや活動を変えるわけにはいかない。あくまでも学校全体、学年全体の流れに沿って動かなくてはいけない。そうすると、担任は結果的に「あの子には合っていないけど…」と、思いながらも検査の結果を無視するような授業をやらざるを得ないことになる。

特別支援の場合、授業の内容を子供に合わせて変えられる。だから、私は「無視」まではしていなかった。(と思う)だが、運動会やら学芸会やら学校全体で動く時には、子供の思いや検査の事なんて無視して、ガンガン進まざるを得ない。

 

ホントは、発達検査は担任の為にあるのかもしれない。

なかなかクラス中に溶け込んでくなかったり、指示に従ってくれない手のかかる子を相手にすると、担任は「自分の指導力不足かも」と不安になる。そんな時、この発達検査があると、担任の中で言い訳ができる。

「この子は発達障害がある。だからクラスに馴染めなくても仕方ない。私の指導のせいじゃない」

そんな言い訳をしても状況は改善はしないが、少なくとも担任の自己肯定感低下に歯止めはかかる。

 

…先生とはなかなか悲しい生き物だ。

 

発達障害が、治る、とは?

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特別支援学級に勤め出して、数か月後のこと。

長期休暇で実家に帰省した際、私は自分の仕事の事を両親に話した。両親もそれまでの私と同じで、障害のある子どもや人に対して何の経験も知識もなかったはずだが、興味を持って聞いてくれた。その時に、父が私にこんな質問をしてきた。

 

「その障害って、治らないのか?」

 

「治らないよ」と答えたが、その時私は、自分のクラスの子ども達の顔を思い浮かべながら、障害が治るってどういうことなんだ?と考えてしまった。

例えば、足に障害があって歩けなくなってしまった人に何らかの治療をして、また歩けるようになった—。恐らく父は、そんなケースをイメージしていたのだろう。

だが私のクラスの子ども達が抱えているのは、身体的な障害ではなく発達障害だ。物事の感じ方や捉え方、集中の仕方が世間一般と比べると偏りがある、という事。大雑把に言ってしまえば、『超個性的』という事だ。その障害の部分が治る、という事は、その個性が薄まって、世間一般的になるという事なのか?でも、その子がその子でなくなっていくという意味だとすると、決して良いことではないのでは…?

 

長所と短所は裏返しである、とよく言われるが、発達障害もそれと全く同じである。かつて私が担任したクラスに視覚と聴覚に過敏さを持つ男の子がいた。彼は非常に優れた視覚を生かして図工の時間にはユニークな作品を作り上げたし、たまに聞こえてくる彼の歌の音程は完璧だった。だが、耳と目が良すぎる、という事は人よりもたくさんの視覚や聴覚の情報をキャッチしているという事でもある。学校のようなザワザワした場所は、彼にとっては疲れやすい。時に情報を上手く消化できず、パニックになってしまう事もあった。

一度、その子が隣のクラスの教室の前でパニックになって叫んでしまった事があった。なんでそうなったかは覚えていないが、その子にとっては情報過多の状態だったのだろう。しばらくするとその子は落ち着いて、特にその後は問題なくその日は終わった。放課後、隣のクラスの担任の先生に、クラスの前で騒がしくしてしまった事に対して私は謝りに行った。その時、その先生は私に同情するような顔で

「あの子は病気だよ。先生も大変だね」

と言った。

恐らく、私を気遣って言ってくれたんだろう。

だが、妙に悲しく、妙に腹立たしかったあの時の感情が今でも忘れられない。

特別支援学級との出会い

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わざわざ生きにくい所を選んで咲く花もある


私が初めて教員として小学校に赴任したのは、かれこれ10年前の事。とある特別支援学級の、臨時的任用教員になった時だった。

・・・恥ずかしながら、私はその話が決まった時、

「特別支援?なんだっけ。ああ~障害のある子達のクラスか…」

とぼんやりと思い出したくらい、特別支援や障害に対して何の知識もなかった。大学の時に、自閉症ADHDの事は勉強していた。でもその時までは「障害」というものは自分とは全く関係ない、とは言いすぎだけれども、国会中継の答弁と同じくらい遠い世界の物だったのだ。

 

自分が初めて、「障害」と言うものを知るきっかけとなったのは、学校に勤務し始めて1か月ほどたった時。クラスの子どもの事を先輩の先生と話していた時のことだった。その時、私は子ども達が物事に過度にこだわったり、落ち着きがなくなったりする事のわけがよくわからず、不思議でたまらなかった。先輩はそんな私の話を聞いて、

「でもさ、あなただって、ウチの子ども達と同じような所たくさんあるわよ」

とサラリと言ったのだ。

「えええええ~そうですか~?」

と、その時は素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

でも時が経つにつれて、その言葉の意味がジワリじわりとわかってきた。

子どもの時から耳が痛くなるくらい言われてきた、注意散漫、落ち着きがない性質。発想力や行動力はあるけれど、一つの事を正確にきっちりやるのは極めて苦手でミスが多い事。一つの事に集中してしまうと、他の事に意識が全く向かなくなってしまう…。

自分自身についてこれまで悩んでいた事を挙げていくと、それらは全てADHDの特性にきれいに当てはまっていくのだ。

そうか、私はADHDの傾向のある人だったのか。だからミスをなくそうと自分でがんばっても、限界があったのか。そう思ったら、別に問題が解決したわけではないけれど、自分自身に対して妙に腑に落ちたような感覚があった。

自分が障害の要素を持っている、と気が付いたのとほぼ同時に、私はもう一つの事に気が付いた。それは世の中の人のほとんどが何かしら障害の要素を持っている、という事だ。一つの物を見た時の意識の仕方や、感じ方。行動に起こすまでの思考の流れ、集中の度合い…どれをとっても皆違うし、意識して変えられるものでもない。皆何かしらの偏りがあり、それが個性だとも言える。

 

障害は悪い物でも、治すべき物でもなんでもない。人間が生まれた時から持っていて、死ぬまでずっと一緒についてまわる「個性」だ。

 

障害との出会いは、私にとっては人間の見方、自分との向き合い方その物を大きく変えてくれた。