おたまじゃくしはカエルの子

元小学校教員の、徒然なる日々の記録

そうだ、北海道に行こう

北海道に行った。

 

このコロナ禍の最中に。

 

北海道は、私一人だけ行った事がなかった。

というのは、私以外の人達、両親だったり、祖父母だったり、友人だったりはみんな行って、あれが旨かっただの、ここが良かっただの言っているのに、なぜか私は行った事がない。わがノッポの相方も、学生時代に自転車にテントを載せて、走り回ったとか。

 

いいもん、別に北海道に行けなくたって、デパートの北海道フェアに行けばロイズのチョコも、うに丼カニも食べられるし。なんて口では言ってみても、やっぱり行きたい。

 

という訳で、みんながコロナを気にしてお家にこもっているこのタイミングで、決行である。一応Go to トラベルやってるしね。

 

バイク用のロードマップを見ながら、相方が学生時代に行った北海道の思い出を語っている。北海道という所は、ひたすら広い草っ原がどこまでも広がっているらしい。 「松山千春の『はてーしなーい、おおーぞらーと』って曲あるでしょ、あんな感じ」 松山千春をオンタイムで観ていない私にはイマイチピンと来ないが、とりあえず広い大地と大空を思い浮かべてみる。 因みに北海道の曲、と聞いて私がパッと思い浮べるのは 30年以上前に札幌ビールのCMで流れていた 「おーい、おーい北海道ー」 という曲だ。調べてみたら『I'm 北海道man』という曲名らしい。なんだか、開放的でのんびりした曲ばかりだ。 っと言っても、この相方と行く以上、おそらく何泊かはテント泊、自炊。果たしてのんびりと美味しいモノは食べられるのか。不安を残しつつ、やたらと買い込んだ食料をザックに詰め込んだ。

くせ

子供の頃から、鼻をこするのがくせだった。

 

いや、だった、ではない。くせだ。

 

普通にこするのではない。左手をグーにして左から右へ勢いよくこする。すると、指の関節と鼻の凹凸がいい感じにこすれあい、ゴリゴリ、ゴリゴリと音がなるのだ。私は基本、右利きなのだが、この時だけは左手だ。なぜか右手だと、左手ほどの勢いと音が出ない。

 

この感触、結構クセになる。まず、音がいい。そして鼻のなんとも言えないムズムズ感が解消されるような、痒い所をかきむしったような感覚もいい。

 

だが、この様子は端から見たら気持ち悪い。子供の頃うっとりと鼻をゴリゴリこすっていると、必ず母が目くじらを立てた。

「止めなさい!鼻が大きくなるじゃない!!」

言われると、とりあえず止めるがこんなに気持ちがいい事をなぜ母はやらないのか疑問だった。母も試しにやってみればいいのに。きっとこの気持ちよさに驚いて、一日中ゴリゴリこすり続けるに違いない。

 

しかし、大人になってこの言葉を思い出さずにはいられない日がやってくる。

数年前、公立の小学校の特別支援学級で6年生を担任した。男ばかり、6人。女は私一人だった。それまで彼らは男の教員にしか受け持たれなかったそうで、女という生き物に馴染んでいなかった。そのせいか、私の持ち物やら行動やら、見ていなさそうで興味深々で観察していた。

ある日、その中の一人が、私の顔をしげしげ見ながらこう言った。

「せんせいってさ、昭和顔だよね」

 

・・・・はあ?

確かにその年から歴史の勉強で昭和という時代の年号は教えていたが、昭和顔などという言葉は聞いたことないし、意味がわからない。

「・・・よくわかんないけど、私のどこが昭和顔なのよ?」

その子は私の顔の中央を見ながら、はっきりと

「鼻がでかいところ」

 

ああ、お母さん。やっぱりあなたは正しかった。

あの時鼻をこすり続ける事さえ止めていれば、こんな事にはならなかったのに。

 

 

リョコウと旅

子供の頃、私は人がなぜ旅に行くのかわからなかった。

 

別に旅行をした事がなかったわけではない。家族旅行という物は、我が家にだって年に1,2回はあった。そして、心待ちにしていた頃も確かにあった。しかし、何度も行くうちにリョコウというものに行く意味がだんだんわからなくなっていったのだ。

 

まず、リョコウに行くに行く日の朝は早起きをする。大抵午前4時に起床。まだ暗いうちに車に乗り込み、前日にコンビニで買ったおにぎりやサンドイッチを食べる。ちなみに、この時私はどこに連れて行かれるかわかっていない。わかっているのは、ただリョコウというよくわからないけど非日常的なイベントがある、という事だけだ。

 

昼前に、最初の目的地に到着。大抵、風光明媚な場所、例えば滝だったり景色のいい山の方だったりする事が多かった。ここで景色を眺めつつ、観光地に付き物のソフトクリームか何かを食べる。この時よく大きな薄汚れたザックを背負って、がっしりした靴を履いた人達が、山や谷の方へ歩いて行くのをよく見かけた。なんだか面白そう。母に、行ってみたい、と言うと母の答えは

「また、今度ね」

また今度、の今度が本当にある、なんて信じるほど私は幼くはなかったが、まあ、いいやと自分を納得させる。リョコウは始まったばかり。この先に本丸的なお楽しみが待っているのだ。

 

昼食を食べると、博物館か資料館に行く。私の父は歴史好きで、我が家のリョコウは、歴史的資料を展示する博物館か資料館に行くのがお決まりだった。ガラスケースの中の色々な物を見ながら、母が解説を読んでくれる。別につまらなかったわけではない。でも今でも思い出せるものはほとんどない。でも、当時の私は、じゃあ別の所に連れて行ってほしい、と主張する頭もなかった。リョコウでは資料館に行かなくてはならない、と思っていたのだ。

 

午後3時過ぎに宿に着くと、父は大概ここで運転が疲れた、と言って昼寝をする。その間、私は母とお土産物を見たり、宿の周りを散歩する。ぶらぶら歩きながら、私はリョコウがまだ明日もある事にわくわくする。きっと明日は面白い事があるに違いない。

 

次の日、朝ごはんを食べるとまた車に長い間乗り、今度は城に行く。城に着くと、読めない字で書かれた巻物の手紙やよろい兜が展示してある。よろい兜を見る度に母はこう言う。

「昔の人は、小さかったのねー」

…うん、まあそれに異論はないのだが。

 

と、まあこんな感じで、どこに行っても歴史的、地理的に有名な名所を巡り岐路に着く、というのが我が家のリョコウだったのだ。私は、きっと次はすごい所に連れて行ってもらえる、とどこかで思いながらも行く先々でなぜかあまりテンションが上がらず、なぜ上がらないかもよくわからないけどまあいいか、と思いながらリョコウに参加していた。

しかし、ある時私はふと考えた。いったい私は、なんのために長い時間、時に車に酔いながら移動し、高い金を払って(別に自分が出しているだけではないのだが)ホテルに泊まるリョコウに行ったのだ。風光明媚な景色はきれいだったが、別にテレビでも見られる。資料館もつまらないわけではないが、何が展示されていたかは、いまいち思い出せない。そんな事を考えたら、一気にリョコウに対する興味がなくなってしまったのだ。

 

こんな思い出があったからだろうか。大学に入って自由に色々旅行に行ける立場になってもなんとなく面倒に感じてしまい、あまりどこにも行かなかった。今から考えれば、もったいない極みである。

 

旅が好きになったのは、皮肉にも遊びに行く時間少なくなった社会人になってから。本屋で世界遺産である熊野古道の本を見つけ、歩いてみようとと思いついたからだ。と言っても山に登った経験などほとんどない。コットンのパーカーにスキーのダウンジャケット、という山には全く向いていない格好で夜行バスに乗り込んだ。

これがとてつもなく楽しかった。一人で歩いていると、見知らぬおばさんがみかんをごちそうしてくれた。バスの運転手さんも話しかけてくれた。泊まった民宿のおじさんが、翌朝車で送ってくれたのだが、その途中で、

「あの石は安倍晴明が座った石や。ここにタオルあるから敷いて座っておいで」

と(私ははっきり言って興味がなかったのだが)車から降ろされて石に座らされた。何よりも、熊野古道を歩く、という目的がはっきりとしていてそれが達成出来たら気持ちいい。名所や観光地に行かなくてはいけないという、謎の義務感もない。

 

それから私は登山の道具を少しずつ買い込み、休みには山旅に出かけるようになった。大抵一人で出かけたが、寂しいと思った事は一度もない。女が一人で出かければ、

「一人で来たんですか?」

誰かしら必ず話しかけてきてくれる。時に、話が盛り上がって連絡先を交換したりもする。

社会人としての仕事は、いつもダメダメだったが、山に行くと、自分の足で一歩一歩、確実に世界を広げているような感覚があった。

 

もし、あの時熊野古道に行っていなかったら、私はリョコウに行く意味も分からず、自分の足で旅をする自由も知らず、今の相方にも出会っていない。人生というのはリョコウではなく、旅なのだと思う。

 

 

 

日本の就活は、異常?

就職活動、略してシューカツ。

 

今年はコロナの影響か、あまり姿を見ないが黒いスーツに白いシャツを着た大学生を見かけると、思わずガンバレーと言いたくなる。私も10年ちょい前に、同じようにシューカツをした。正直、あまりあの時の事は覚えていない。大学3年生の11月から、憧れの出版社就職を目指してスタートをしたが、玉砕に次ぐ玉砕。出願の範囲を広げろ、というアドバイザーの言葉に素直に従って教育やら広告やらの業界にも手を伸ばしたら、逆に何を目指しているのかわからなくなり、ただただ交通費ばかりがかさんでいった。4年生の夏になって、やっと小さな編集プロダクションに入った・・・・と思ったらアメリカのリーマンショックのあおりを受けてかあっさり

「仕事がなくなった」

と内定を切られ、9月からまた再スタート。なんとこさ仕事が決まったのが4年生の10月終わり。考えてみると、丸々1年も就職が決まらずおろおろしていたのだ。

いったいいくつの会社を訪問したり、エントリーしたりしたんだろう。今となってはもう名前すら思い出せない。

面白いのは、あれから10年以上経ったのに、初めて降り立ったはずの駅に着いた時、

「あれ?ここ前に来たことがある・・・」

と思う時が結構な確率であるのだ。そして、よくよく考えると黒いスーツを着て、地図と周りを必死で見比べていたような記憶がふわっとよみがえってきたりする。シューカツが果たして有意義な経験だったかどうかもわからないが、とりあえず自分の一部として残ってはいるらしい。

 

なぜ、あの頃あんなにも必死で就職活動をしたのか。理由は一つではないが、おそらく「ここで就職しなければ、社会の正規ルートから外れてしまう!」という思い込みがあったんだと思う。みーんな一緒に学校に通い、卒業し、受験し・・・・というサイクルの10何年というのは恐ろしいモノだ。あんなにも、

「人は人、自分は自分だから」

などと偉そうに息巻いていたくせに、いざ、独り立ちという時に必死に足並みを合わせようとしていたのだから。別に就職活動そのモノがおかしい、とは思ってはいない。だが、もしあの頃の自分に会えるのなら、

「おまえは、世間と歩調を合わせたくてシューカツしているのか、自分の目的のためにシューカツしているのか、どっちだ!」

と一喝してやりたい。・・・まあ、あの頃の自分がその言葉を聞き入れたかはわからないが。

 

カナダに行った時、よく日本の就職活動について話が出た。カナダに限らず、海外の人たちにとって日本の就活の光景(黒いスーツにひっつめた髪、みんな同じバックと靴で会社説明会に行く)は奇妙、というか不思議な光景として捉えられる事が多い。なぜなら、カナダには「新卒」という概念が存在しないのだ。大学を出たばかりだろうと、何年の仕事をしていようと、「私はこいういう技術があります。これができます」と自分を企業に売り込まなくてはいけない、ある意味とても平等な社会だ。売り込むポイントがある者は、就職するチャンスがあるが何もなければもちろんなかなか就職が決まらない。至極シンプルな社会。カナダの会社でワーキングビザを取って仕事をしている日本人と話していた時、

「日本の就活って、ホントにありがたいと思いますよ。だって、何もできない人が大きな企業に入るチャンスが与えられて、しかも入ってからお金をもらって一から教えてもらえるなんて、なかなかないですよ!」

と言っていたのを思い出す。

 

就職活動がいかに大変だろうと、大学を出たばかりの学生というだけで手厚く扱ってくれる企業がまだ日本にはたくさんある。終身雇用制度が崩壊した、とは言われているが日本は(外から見たら)まだまだみんな横並びの平和な国だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「生きる力」と「生き抜く力」

実は、私は過去にほんの2か月だけ結婚相談所に登録していた事がある。別に結婚しなきゃ!と焦っていたわけではない。人生に色々迷っていた31歳の頃、とある占い師に

「あなたは、まず何より結婚相手を探すべきです。それには結婚相談所にいきなさい」

と言われた。その人のそれまでの話があまりに的確に当たっていたので、つい真に受けてしまったのだ。今から思うと、行った先が怪しげな霊感商法の拝み屋とかでなくて、ホントに良かったと思う。こうして私は2か月ほど「婚活」をして、結局婚活とは関係なく出かけた山で今の相方と出会い、今に至っている。

 

そんな経験があるせいか、結婚相談所や婚活の話が聞こえてくると、ついつい耳をダンボにして聞いてしまい、「あ~確かに、そういう事ありそうだな~」(たった2か月しか活動してないにも関わらず)などとふむふむ、にやにやしてしまう。我ながら、実にいやらしい。

 

先日、Youtubeで『さよなら婚活チャンネル』という結婚相談のカウンセラーさんがやっているチャンネルを見つけた。婚活に関するリアルな話をたくさんしていて興味深いのだが、その中に

「実家暮らしだと、婚活は難しいか?」

という話があった。結論から言ってしまうと

「Yes」

で、女性でも男性でも「親に頼っていて自立していない人」と見られてしまい、婚活が長引くケースが多いらしい。実際、親に身の周りの事をなんでもしてもらうのが当たり前、という感覚の人が少なからずいるのも事実のようだ。強烈だったのが、

「私、かつてハンガーの使い方を知らない40代の男性を担当したことあるんですよ~」

という話。

「結婚となると’生き抜く力’が求められるんですよね」

 

うむ、納得。

 

ふと、カナダでのスピーキングクラスを思い出した。

カナダでの教育事情について皆でディスカッションした事がある。カナダでは、一部の先生達は九九を教えないらしい。不思議に思った保護者が先生に訊いた所、

「電卓を使えば問題ないでしょ」

という答えが返ってきたという。

まあ、言わんとする事はわかるが、やっぱり計算を自分の頭でする事が子供の能力の発達を促す上で大切なんじゃないの?と私が言うと、何人かがそれに賛同した。その様子を聞いていた先生がこんな話をしてくれた。

「私はここの学校で教え始めてから、ホームステイ先で電子レンジの上にモノを置いたまま使ってしまい、ボヤ騒ぎを起こした日本人学生を3人は知ってるよ。計算を電卓なしでできる事と、正しく電子レンジが使える事、どっちが大切だと思う?」

う~ん、それを言われてしまうと、日本人が学校で一生懸命やっている事の大半が何のためなのか、わからなくなってしまうではないか、と、なんだか遠い気持ちになったことを思い出す。

 

今、文科省の学習指導要録には

「生きる力」

という言葉がきらきらとたくさんちりばめられている。生きる力、とは何なのか考えていくとこれまたきりがなくなるので今日は省くとするが、一つ言えるのは「生きる力」の前に「生き抜く力」がだんだん下がってきているのではないだろうか。そりゃそうだ。わからない事があれば

「OK、google

の一言で、解決してしまう世の中なのだ。でも、便利な世の中に慣れきってしまって、主体的に見て、感じて、触れて、そして行動しようとする力がなくなっていってしまっているとしたら、それこそ本末転倒だ。

 

幸い、私が山で見つけた相方は独身時代もほとんど外食をせず、恐ろしく汚くて狭い台所で米を炊いて、野菜炒めなんぞと一緒に食べていた男だ。生き抜く力に関して言えば、平均値以上は持っているはず・・・・

と思っていたのだが、前は自分でやっていた弁当箱におかずを詰める作業を、最近私がやってあげている事をいいことに、何も言わずにやらないで寝に行ってしまった。

 

生き抜く力、保持と強化のため、あえてやらないのも愛情の一つなのかもしれない。

 

 

 

 

 

カナダ、犬事情~食事編

ホストファミリーが1週間のクルージング(ディズニーのクルージングでアラスカへ行ったらしい)に出かける前の週、私はホストマザーやファザーからくどいほど

「ルファス(犬)の面倒を見てくれてありがとう」

と言われた。

私は本音と建て前の日本人。だから、笑顔で

「全然。犬は好きだし問題ないよ」

と言ってはいたが、内心、

「やっちまったな~超めんどくさい事ひきうけちゃったー」

と思っていた。

犬は好きだし、実家でも飼っていたので問題はない。だが、彼らの犬の飼い方のこだわりを見ていたら、だんだんめんどくさくなってきたのだ。

 

まず、基本となる食事。これは朝と夕方の二回に分けてするように言われた。これはまあ普通なのだが、ドッグフードを皿に盛って、ほれ、という訳ではなかったのだ。まず、缶詰めのドッグフードを3分の1ほどボールに入れて、レンジで30秒ほど温める。スプーンでまぜまぜしてほぐした後、そこに三種類のドライフードを計量カップで測って入れる。それをさらに混ぜ混ぜして、ようやく完成。

 

このエサをやるのも、犬小屋の前にほれ、と置くだけではなかった。ホストファザーには

「ルファスはクリスチャンだから、食事の前にはお祈りをさせてくれ」

と言われた。なんのこったい、と思ってホストファザーがエサをやるところを見てみると、

「ルファス、プレー!!」

と言うと、ルファスは地べたにふせて、(目だけはエサの入ったボールを見つめて)日本流に言えば「ふせ」のポーズを取った。そこから

「天なる父よ、うんたらかんたらうんたら・・・・・」

とお祈りをし始めて、

「アーメン!」

と言うと、ルファスは体をガバっと起こしてエサのボールに頭をうずめた。

早い話が、日本で言う所の

「お座り」

「まて」

なのだが、クリスチャンでもなんでもない私がこんな「お祈り指導」的な事を、相手が犬だとは言えやっていいものなんだろうか。

 

 

とは言っても、もしこの一週間でルファスが急に太ったり痩せたり、病気になったら私のせいになるわけだし、一週間後にホストファザーが

「アーメン」

と言い終わるまえにルファスがエサを食べだしてもやっぱり私のせいになりそうだ。そうなると、ここまで比較的平穏に過ごしてきたホームステイでの生活にも影響が出そうなので、私はホストファザーがやるよりかなり荒っぽくえさをざくざく混ぜあわせて(電子レンジでチン、はやらなくても大丈夫だ、と勝手に判断してやらなかった)ホストファザーがやる半分以下の時間で、「お祈り」をさせていた。

 

かなり適当ではが、それでもエサを与えていた事には変わりなく、

「こいつに逆らうと、ご飯がもらえなくなってしまうらしいぞ」

という事は、ルファスもわかったようだ。

初日こそ、私の適当な「お祈り」を無視しようとしたルファスだが、私が日本語で

「こらー!」

と怒ると、次の日からは上目遣いに私を見て、一応は言う事を聞くようになった。

 

 

 

 

 

 

カナダ、犬事情

有名なカナダ人ジョークで、

「バーベキューが好きで、犬を飼っているのがカナダ人」

というのがあるらしい。

 

確かに、カナダに行ってから犬を見る事がうんと増えた。日曜日の朝はよくランニングをしに公園に行っていたのだが、散歩をする人の3割から4割は犬連れだった。日本だと、「あれはチワワね」「あれはビーグルね」と見ただけで大体犬種がわかるが、カナダではそういう犬はあまりいなかった。耳と鼻だけブルドックなのに体は大型犬だったり、どういう犬同士がかけあわさったらこんな犬が出てきちゃうんだろう、という犬がたくさんいた。そして何より、洋服を着たりおしゃれをしている犬が、ほぼ、いない。きゃんきゃん吠える犬もあまりいなくて、日本に比べたら彼らはストレスのない犬社会を生きているような気がした。

 

私のいたホストファミリーの所に犬がやってきたのは、私が暮らし始めて1か月ほどたったある日だった。私が学校から帰ってくると、ホストファミリーがリビングに集まっている。どうしたどうした、と見てみると、生後8か月ほどの黒い子犬がいた。なんでもその日の朝、車で3~4時間ほどかけて、ブリーダーの元からやってきたらしい。

ホストファミリーはどこでその犬を飼うかで、真剣に議論をしていた。

「こんな小さなベイビーなんだから、家の中で飼わなきゃかわいそうよ」

というマザーと、

「この犬はドーベルマンの血が混じっているから、大人になったら体が大きくなって家の中じゃ飼えないよ」

というファザーと娘。結局は外で飼う、という事になって、玄関ポーチで飼われる事になった。

名前はルファス。聖書から取ったらしい。さすがクリスチャンだ。

 

ルファスはそれから玄関ポーチの犬小屋で、日々よく食べ、よく眠り、私達を見かけると尻尾をぶんぶんとふって、すくすくと成長していった。マザーは

 

「ルファース、マイベイビーベイビー」

とまるで0歳児のように溺愛していたが、2か月もすると体は立派な成犬になってしまった。犬小屋の前にひいてあったふわふわラグは、2日後にはルファスに噛まれてぼろぼろのぼろ布切れに変わり、散歩に連れ出そうとすれば、ファザーを引きずりそうな勢いでふぐふぐ言いながら走りだそうとする。さすがドーベルマンの血が混じっているだけあって、落ち着きがない。

 

さて、ある日マザーにリビングに呼ばれた。

「実は再来週から、私達は三人でクルージングの旅行に行くことにしたの。今年に入ってから三人で旅行に行けてなかったから。あなたたちの食事の支度なら心配しないで。教会で仲良くしている友達に来てもらう事にしたから。」

ふんふん、まあ、それはいいけど。ご飯も別にかまわない。(もうその頃にはマザーのご飯にあきあきしていた)ただ私には、気になることがあった。

「ルファスはどうするの?誰が面倒みるの?」

「それがまだ決まってないのよ。だれか、アルバイトで頼みたいんだけど」

私はつい、そこで言わなくてもいいことを言ってしまった。

「私が面倒みようか。実家でも犬飼ってたし」

「ほんとうに!!!」

マザーはハグせんばかりに喜んだ。そしてあっと言う間に私がルファスの面倒見係となってしまった。

 

彼らがクルージングで優雅な1週間を過ごしている間、私がどんな日々だったかは、また改めて書く事にしよう。