おたまじゃくしはカエルの子

元小学校教員の、徒然なる日々の記録

学校じゃないと、できないこと

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今、私はフリースクールで働いている。

 

フリースクール、と一言で言っても、学校にまた復帰できるように働きかけるタイプと、学校に行かない事を認めてあげるタイプとがあるらしいが、私が勤務しているのは完全に後者である。

教員時代、「学校にお出でよ」と子供に毎日働きかけていた事を考えると、今とは真逆の立場だ。

 

正直に言うと、私は教員時代、公立の学校が全ての子供達にとって居心地のいい楽しい場所にすることがとても難しい、という事を毎日痛感していた。学校は全ての教科を満遍なく一通りこなしたり、他人と波風立てずに平和に過ごすことを学ぶ場としてはいいかもしれない。だが、一つの事に没頭して取り組んだり、試行錯誤しなから自分の答えを探したい子供には、残念ながら合っていない。

本当は、そういう学ぶ姿勢こそ大切に育てるべきなのに。

 

今の職場に移ってから、子供達に寄り添った立場でいられることに、私はどこかほっとしている。だが、(少々皮肉な事に)学校から出てみて、学校にしかない事もたくさんある事にも最近気が付いている。

広いグラウンド、本がそろった図書室、理科の実験道具がたくさんある理科室・・・・などなど。もちろん代替案はあるけれど、それらがすぐに利用できるというのは恵まれた環境だと思う。

先日、保護者のお母さんと話をしていた時にこんな話が出た。

「正直、勉強の事より、人間関係の事が学べない事の方が心配なんですよね…」

学校に行っていなくても、今は勉強を教えてくれるツールやサービスがたくさんあるので、勉強についていくことはそう大変ではない。だが、沢山の人との「出会い」は本来学校が提供してくれるはずの一番の学びであり、他ではなかなか得られない経験だ。

 

いつの日か、公立の学校が、全ての子供にとって居心地のいい場所になったらいい、とは思うが実際はムリだろう。

だが、せめて、学校はもう少し幅広い子供達を受け入れる場になっていってはもらえないだろうか。学校に通えなくなってしまった子供達から、現在学校に通っている子供達が学べる事も、実は沢山あるはずなのだ。

 

 

 

 

子供の、幸せ

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教員時代、とある先輩先生に言われたことがある。

 

「『子供は楽でいい』と大人はいいけど、全然そんなことないよ。大人はね、ストレスが溜まったら、おいしいものを食べて好きな物を買ってストレスが発散できる。だけど、子供にはそんな選択肢なんてないんだから」

 

子供は大人より、うんと不自由だ。

大人は、自分で住む所が選べる。仕事が選べる。一緒に住む人も、食べる物も、着る物も、全部自分の経済状況と責任の範囲の中で決められる。

だけど、子供はそれら全て、周りの大人が決めた中で生活しなくてはいけない。それだけでなく、学校に行けば学校の、家に居たら家のルールに従って動く事を求められる。大人になった今の私がそれを求められたら、『絶対むり!』と言うに違いない。

さらにさらに、学校に行けば常にみんなと一緒に動く事を求められる。授業では、どの教科も学校が定めたレベルまで到達しなくてはいけない。

これだけ色んな個性や、バックグラウンドを抱えた子供が集まっているのに、だ。

 

たまに、思う。

ウン十年前の私、よく我慢してたなあ。

そして、それからウン十年たって教師をやってた頃の私。子供達に全く無駄なストレスかけてたなあ。自分が、我慢していた立場なのに。

 

子供にとっての幸せってなんだろう。

 

日本の教育に常に付きまとっている「こう、あるべき」という鎖を取っ払って、この事を考えてみたら、意外とあっさりともっと大事な事がある事に気が付けるような気がするのだが。

くるりんぱカード

私は小学校でトータル7年ほど教員をしてきたが、そのうち5年は特別支援学級で勤めてきた。

特別支援の一番好きなところは、教材を教員が選定したり作ったりできるところ。目の前の子供の姿を思い浮かべながら、本屋さんで教材を探したり、他の教員と情報交換をしたりすることは、本当に楽しかった。これ、子供とやったら楽しいかも、と妄想を膨らませるわくわく感は、

「こんな仕事、やめてやる!!」

というやけっぱちをも押し流してしまうほど。

 

結局、私は子供に受けていたい、芸人なんだろう。

 

勤め先がフリースクールに変わった今、教材探しはもはや日常に変わり、日々図書館やらネットやらを漁るようになっている。

 

 

 

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このカードは、イラストレーターをされている井上智陽先生(通称、ちい先生)に教えていただいたもの

f:id:clara-satoko:20210510235755j:plain くるっとめくると、こうなって f:id:clara-satoko:20210510235914j:plain f:id:clara-satoko:20210511000042j:plain 中はこんな感じ[f:id:clara-satoko:20210511000137j:plain 折り畳み方がわからなくなり、何度もやり直してたので、画用紙の端がちょっと敗れているが、まあ気にしない。 子供にウケるか、ウケないか…

バレーボールからの逃避

教員時代の思い出話を一つ。

 

毎年、5月頃になると職員室はにわかに活気づく。それは、「体育部会主催、教員対抗バレーボール大会」があったからだ。

どこの学校も、所属する市や区の教育委員が主催する研究会(通称、市教研又は都教研)に入っている。教員が興味のある教科の部会に分かれて、授業の研究会をする会で、その中には体育を研究する部会もある。そこに所属する教員達が、毎年その時期に企画するのである。私は何回か都内で異動を経験したが、どこの学校でも毎年その時期に行われていたので、慣習なのだろう。

 

朝の職員朝礼の最後に、体育部会の若くて元気な教員がアナウンスする。

「今日の放課後、5時頃からバレーボールの練習を行いますので、皆さん体育館にお集まりくださーい。特に、若手の皆さん、おねがいしまーす。」

私は毎年これを聞くと、内心ぎょえ~~~と叫んでいた。

はっきり言って出たくない。

 

教員の定時は、16時45分と決められていて(この時間で帰れた事など、ほとんどなかったが)5時、というのは勤務時間後。つまり仕事ではない。

だったら、出なきゃいいか、と言うと、そんなに単純な話ではない。

仕事が終わらないので、と皆が練習をしている時に、職員室で仕事をした事が何度かあったのだが、先輩先生達に

「あら~練習行かないの~~?」

と言われる。はあ、まあ、などと言っていると、

「教員同士の交流と団結を高めるため」

「市内の教員同士の交流の貴重な機会」

「みんなも仕事終わらない中やっているんだから」

「若手なんだから、出ないと」

等々、様々な「出ないとダメ」キーワードを並べられるのが常だった。みんな仕事が終わってないなら、みんなバレーボールなどやってる場合じゃないだろ、と思うのだがここが日本的同調主義の不思議なところだ。

 

みんながやっている事を一緒にやるのが、正しいのである。

 

しかも、不幸な事に私は無駄に背が高い。これまで部活は文系で、スポーツなどやってこなかった。球技なんて大っ嫌い、なのに。

「背が高いから、バレーとかバスケットとかできそうだよね」

という悪意のない言葉に、これまで何度イラっとしてきたことか。なんだよ、背が高かったら、球技が出来なきゃダメなのかよ。

 

だから、私は朝礼でバレーのアナウンスがあった日は、16:45になったら仕事を抱えて自分の教室、もしくは図書室に引きこもっていた。そして廊下の足音が聞こえる度に、どきっとしながら、小さくなって過ごす。職員室に戻るのは、皆が練習を終えて、帰り始める19時過ぎ。この一連の逃避行を、私は毎年繰り返していた。

 

恐らく、他の教員からは「あの子って、協調性ないよね。変わってるよね」と言われていただろう。

 

仕方がない。だってやりたくないモノは、やりたくないのだから。

万華鏡

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手づくり万華鏡。筒は、キッチンペーパーの芯


「これ、全部100均の材料で作ったんですよ」

と先輩である先生に見せてもらった、手作り万華鏡。

 

早速マネして、子供達と作ってみたけれど、評判は今一つ。

「あんまり、きれいに見えない」

「六角形に見えない」

 

等々言われて、子供も私もテンションは上がらない。

「中に入れた、透明の板がよくない」

「きっちりと大きさがあってない」

等々問題点を指摘され、いつものごとく100均をうろついてみる。

本当は鏡を使いたいところだが、鏡は切るのが難しいし…

工作用のプラバンを見つけ、内径ぴったりの正三角形になるよう作り直す。

 

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きれいに作り直した万華鏡を、覗いてみると・・・・

 

 

 

 

作り直して、子供達に見せると

「これは、きれーー!!」

やったー!

 

もうこうなってくると、どっちが子供なのかわからない。

 

その後、一緒にあまりきれいじゃない前の万華鏡を作った子供に、

「ねね、材料変えてもう一回作ってみない?」

と声をかけてみたが

 

「えええ~もういいよ~」

と言われてしまう。

 

 

・・・・・まあ、そうだよね。

ゾートロープ

先日、子供達とゾートロープを作った。f:id:clara-satoko:20210502204259j:plainf:id:clara-satoko:20210502204200j:plain

ゾートロープって何?と思われるかもしれないが、簡単に言えば手作りアニメーションの装置だ。今から200年くらい前からあったらしい。

 

困ったのは材料だ。アニメーションの絵を入れる、円形の入れ物を何で作るか。

初めは、黒いゴミ箱で、と思ったが、固いプラスチックに覗き穴であるスリットを入れるのは子供には難しすぎる、という事で断念。100円ショップでうろうろしながら考えた結果、紙製のケーキ型と黒い画用紙作ってみることに。

 

子ども達と作る時は、見本作品をぽん、と見せて後は出来るだけヒントを言わないようにした(つもり)。

ケーキ型の直径から円周を出すんだよ~とか、

コマ割りはきっちり正確に同じ幅をとらなくてはいけないよ、とか

上手く作るために言った方がいい事はたくさんあるのだが、別にそれが目的ではない。

本当は言いたい気持ちを出来るだけ抑えて、見守る。

 

皆、定規を使って何かを作った事がないようで、まず水平に線を引くのも一苦労だった。せっかくできたー、と喜んで試してみたら、スリットとコマが合っていなくて、やり直し、と言うことも。その時は軽く、明るく

『もう一回やったらいいじゃん』

 

沢山試して、失敗する。そんな経験を子供達と作っていきたい。

 

 

私の仕事

今、私はフリースクールで働いている。

フリースクールにも、色々な目的、方針の学校があるが、私が今勤めている学校は、いつ通うかは、自由。何の授業を受けるかも、自由。子供達が、自分で勉強したい事、興味がある事を自分で探す学校。公立の小学校とは、対極の存在だ。

 

ここの学校に来た最初の日、ここのTさんに言われた事を今でもよく覚えている。

「ここの学校の目的は、子供達の学びの最初のきっかけを作る事。それだけ。きっかけができたら、子供達は勝手にどんどんやるんだから。」

 

公立の小学校で勤めていた頃、耳にタコができる程言われていたのが、「授業目標は、ちゃんと達成できていましたか?」という事。自分のクラスの子供達全員に、一つのゴールテープを切らせる。これが授業であり、先生の役目だった

 

だが、今の学校の目的は子供達に、「自分でやってみようかな」と思わせる事。子供達が自分で、もっとやってみたいと思えることを一つでも多く見つける手助けをするのが私の仕事だ。言ってみれば、ゴールテープではなく、スタートの白線に子供達を連れて行ってあげる事なのだ。

 

これだけ言うと、随分ラクしているな、と思われると思う。正直私も始める前はそう思っていた。だがやってみると、どうしたことか、なかなか上手くいかないのだ。

授業で使える、面白そうな事を集めてくる事は、そんなに難しい事じゃない。だが、授業を受けた後に、子供達が自分から動きだす事を後押しできる授業、というのが私にはまだわからないのだ。

面白い事を教える事は簡単だ。だが、面白い事を子供達が自分で見つけたり、探したりするのをプッシュしようとするために何が必要なのか。とりあえずわかった事は、「教えない」ということ。必要な事だけを伝え、後は子供達が自分から動きだすのを待ってみる。「う~言いたい!教えたい!」と思っても、授業の主役は子供なのだから、脇役の私はぐっと我慢する。

 まだ、何が正しいのか、わからない。この先もわからないまま、なのかもしれない。だが、しばらくはこの闇の中を彷徨ってみようか、と思っているこの頃だ。